実習に参加するときの服装

 今回は、実習に参加する際に推奨する服装について紹介します。

まず基本的には長袖長ズボンをお勧めします。野外では虫にさされることが多いです。トゲのある植物やかぶれる植物もいます。基本的に肌を出さないことは野外での鉄則です。(と言いつつ、宮崎演習林は比較的虫が少ないので、私は半袖でいることもよくありますが、、)

次に大切なのは、長めの靴下です。よくくるぶしまでの丈の短いスニーカーソックスをはいてくる人がいますが、それはおすすめしません。なぜなら、靴下と長ズボンの間に隙間が出来てしますので、そこを虫に刺されたり、土がズボンや靴の中に入ってきたりします。長めのソックスであれば、もしヒルが多い場所や斜面で土が靴に入りやすい環境では、靴下に長ズボンをインすることもできます!

靴ですが、高価な山靴である必要はありませんが、底にギザギザのついていないスニーカーなどはとても滑りやすくて危険です。長靴は調査に向いていますが、山登りには不適です。そして、雨でも実習は行いますので、靴が濡れたりドロドロになる可能性があります。靴を持って来ていない場合、そのドロドロの靴で帰ることになります。私は出張で調査に行く際には折り畳み可能な長靴をよく持参します。人によってベストは異なりますが、滑ったり濡れたりするのが嫌な人は、山靴や長靴を持ってくることをお勧めします。

あと、意外にリュックサックを持って来ない人がいますが、必ずリュックサックは持って来てください。お弁当や調査道具などを入れる必要があります。そして、両手はあけておかないと、斜面などでは危険な場合があります。100円ショップで売っているような簡単なナップサックで良いので、必ず持って来てください。(※そして天候によって、リュックもドロドロになる可能性があります。。)

また、コンビニなどで売っているような軍手も持ってきた方が良いと思います。必ずしも必要ではないので特にアナウンスされることはないことも多いですが、森を歩くときに地面に手をついたり木をつかんだりすることがあります。その際、素手で触るのが嫌な人は、軍手を持って来ておいた方が良いです。

最近は安いお店もたくさんありますので、そのようなお店を有効活用しながら、万全の体制でお越しください!何か不明なことや心配なことなどあれば、いつでも実習担当教員に聞いてみてください。


Katayama

椎葉村大河内地区の作物体系

椎葉村大河内地区では焼畑を「ヤボ」,火入れしない普通の畑を「ジョウバタ」と呼称していました。下の表は年間を通じた大河内地区の作物体系を示しています。主食であるヒエが最も重要な作物でしたので,新たに「木おろし」(畑にする森の木々の伐採の意味)を行います。伐採した森に火を放ち(火入れと呼称します)林地に樹木の灰を肥料として残します。火入れ1,2年目は最も肥沃な土壌になりますので,ヤボには主食であるヒエを主に作りました。次に少し土壌の養分が少なくなってきたヤボには小豆や大豆といった多少痩せた土地でも成長できる作物を栽培しました。土壌の養分の変化に伴い栽培植物の種類をきめ細やかに把握していた事がわかります。

大河内地区の作物体系.作付面積により棒グラフの幅を大(0.5ha 以上),中(0.1~0.5ha),小(0.1ha以下)に区分し,作付頻度の高い作物を黒色,中程度を灰色,低い作物を白色で示す.

 (2011椎葉と内海)

椎葉村大河内地区の焼畑の歴史

 

宮崎県椎葉村では古くから焼畑農業が行われてきました。焼畑農業は世界中で長年行われている農業形態で,日本でも山間地においてかつては普通に行われていました。

宮崎演習林が所在する椎葉村大河内地区でも長年にわたり斜面に火を放ち,樹木や草の炭を肥料とする焼畑農業が行われてきました。しかし戦後になって現金で食料が購入できるようになってからは,ほとんど行われなくなっています。宮崎演習林がある大河内地区の焼畑従事者に伺ったお話をもとに大河内地区焼畑について紹介ます。

 焼畑は椎葉村においてかつて生活の基盤であり,九州大学宮崎演習林が所在する大河内地区では 1970-1975年 頃まで広く行われていました。焼畑には火入れの時期に応じて「春ヤボ」と「夏ヤボ」の二通りがあり,大河内集落では春ヤボ を行うことが多かったそうです。ちなみに「ヤボ」は焼畑を意味します。春ヤボでは一般に当年にヒエを生産し,翌年からはアワやアズキなどを 2-3年作りました。夏ヤボ では当年にソバを作り, 2年目にヒエ,アワ, 3年目にはアズキやダイスを作りました。春ヤボは集落から離れた比較的古い林地の斜面に作られることが多かった。そうです。その理由としては主食であるヒエを生産するための肥料として焼畑で得られる木灰が多く残ることが理由です。これに対して夏ヤボは多くの場合,若い林地に開設されました。明治から昭和初 期にかけては春ヤボの場合は約 15-20年,夏ヤボの場合は 78年の休閑期間の後に再び焼畑が行われていましたが, 1940年 頃から積極的に焼畑にスギを植林するようになり,次第にスギの造林地に転換されていきました。